お笑い怪獣・明石家さんまさんの生い立ちについては、現在まであまり語られる事がないですよね。お兄さんやお義母さん(継母)も、さんまさんの生い立ちには重要な鍵を握っているようです。明石家さんまさんについて、現在の実家のお兄さんやお義母さん(継母)、さらにお父さん弟さんについても調べてみました。
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明石家さんまの生い立ちが壮絶!兄と継母の現在は?
明石家さんまの兄について
(出典:https://eiga.com)
明石家さんまさんといえば、現在まで30年以上の長きに渡りお笑い界を牽引する、まさにレジェンドです。元妻が女優の大竹しのぶさんだったり、女性をお持ち帰りしたとかしないとか、プライベートでも話題に事欠きません。でも、明石家さんまさんの両親や兄弟など実家の話になると、それほど語られていないように思いませんか。
(出典:https://kagerou-kazoku.com)
明石家さんまさんには、お兄さんがおられます。正樹さんといい、奈良で『カラオケバーさんま』を、経営されています。さんまさんをふっくらさせたような、よく似た顔立ちの優しそうなお兄さんです。3度目の結婚のお相手が、30歳以上年下なんだそうですよ。
明石家さんまの継母について
兄弟揃って、モテモテなんですね。明石家さんまさんのお母さんは、さんまさんが3歳の時に亡くなっています。その後、さんまさんが小学4年生の時に、お父さんが男の子を連れた女性と再婚されました。この再婚で、さんまさんには新しいお義母さん(継母)と弟ができました。
お義母さん(継母)とさんまさん兄弟は、あまり仲良くできなかったように言われています。自分の家なのにさんまさんは、お義母さん(継母)に遠慮していたんだとか。二段ベッドで兄弟が寝ている隣の部屋で、
「可愛いのは、この子(実の息子)だけ」
などとお酒を飲みながら、言っていたんだとか。何があったかはわかりませんが、言ってはいけないことを、お義母さん(継母)は口にしてしまう人だったんですね。さんまさんたちは、悔しくて泣いていたそうです。
お笑いを目指して
それでもさんまさんは、お義母さん(継母)に興味や関心を持ってもらおうと毎日、必死に面白い事を考えて見せていたそうです。少しでも愛されたいという思いからの行動だったんですね。誰かの興味を惹きたいという、この時の気持ちがお笑いに進むきっかけになったといいます。
この子供の頃の生い立ちのツラい経験から、大竹しのぶさんと結婚した時、前のご主人との間に生まれた二千翔くんを我が子のようにかわいがったのかもしれませんね。お義母さん(継母)が現在、どうされているかは、全く情報がありません。ご存命なら、80歳近いかと思われます。一時期、介護施設にいるといったような噂が浮上しましたが、真偽は定かではありません。
これだけ情報がないのは、おそらくさんまさんとの関係はほぼ途絶えてたのではないでしょうか。
明石家さんまの家族との生い立ちには弟を失った不幸な悲しい別れがあった?
明石家さんまの弟について
明石家さんまさんには、腹違いになる弟の正登さんがいました。さんまさんが小学4年生の時に、お父さんが再婚をしたお義母さん(継母)の連れ子です。その時には、まだ弟さんは1歳前後だったと思われるので、さんまさんは“チビ”と呼んで、実の弟のように可愛がっておられました。
さんまさんの生い立ちにおいてサッカーをやっていたことは有名ですが、弟さんはさんまさんよりサッカーがうまかったそうです。奈良育江高校のサッカー部でキャプテンをし、インターハイにも出場。国体選手にも選ばれていました。将来はお父さんの会社を継ぐことも、決まっていたといいます。
突然の別れ
1983年4月、高校を卒業したばかりの弟さんは、お父さんの工場の火災に巻き込まれて亡くなりました。さんまさんは弟さんと、今度のワールド・カップを2人で一緒に見に行こうと約束してから半年後のことだったそうです。当時は、焼身自殺ではないかと報道するマスコミもありました。
弟さんもさんまさんのことを、とても尊敬していたそうです。さんまさんにとって弟さんは、お義母さん(継母)と仲良くできなくて、居心地の悪い家庭での生い立ちにおいて、一服の清涼剤だったのでしょう。
「まだ納得できません、あのチビが死んだなんて…」
さんまさんのこのコメントが、すべてかもしれません。
明石家さんまの引退を止めたのは?
明石家さんまの引退を止めたのは?
弟さんがなくなった1983年には、すでに『オレたちひょうきん族』が始まり、明石家さんまさんの人気もうなぎ登り。多忙な中、仲のよかった弟さんの悲報に、さんまさんの受けたショックは想像を絶するものだったようです。葬儀の時、遺影を抱く落胆したさんまさんは、テレビで見るサービス精神旺盛なお笑い芸人とは別人。
うつろで、立っているのがやっとという姿でした。芸人は人を笑わせるのが仕事です。悲しみに暮れるさんまさんは、人を笑わせるなんて無理と、この時に引退を考えたそうです。
(出典:https://headlines.yahoo.co.jp)
そんなさんまさんを救ったのは、同期のオール巨人さん。
オール巨人の言葉とは?
「お前んち、兄弟焼いたらしいな」
とある舞台で、口にするのもはばかれるデリケートな話を、ズバリぶつけたんですね。
「そや、材木切れたから代わりに焼いたんや」
さんまさんは条件反射で、返したんでしょう。その場は大爆笑。さんまさんは、巨人さんの同期だからこその励ましに、見事に答えました。舞台が終わり、さんまさんは「これで芸人やめんで済むわ」とお礼を言ったそうですが、沈んでいた心が、人を笑わすことを思い出せたのは、さんまさんが天性の芸人だった証拠。
もしも、巨人さんのフリに返せなかったら、芸人辞めたらと言われていたかもしれないですね。
明石家さんまのブレイクのきっかけは?
元々は落語家だった
明石家さんまさんは元々は、現在のようなお笑いタレントだったわけではなく、落語家だったのです。1974年に笑福亭松之助さんに入門し、落語家ととしてデビューするも結果は出ず。そこで、お笑いタレントにシフトしました。最初は、プロ野球選手(当時阪神の小林繁投手など)やアイドルといったモノマネからはじめ、少しずつ人気を獲得していきます。
さらに、さんまさんはとあるきっかけでブレイクを果たしました。当時、人気番組だった「てなもんや三度笠」という人気番組にゲスト出演て、熊の被り物をしたそうです。その熊の被り物は『幸福の熊の着ぐるみ』として有名で、無名時代の西川きよしさんが被っていたのはよく知られていました。
そしてさんまさんも、西川きよしさんと同じようにブレイクしたという訳です。弛まぬ努力に加えて、このようにどんな事でも自分のチャンスに変えようという意気込み、落語家として上手くいかなくても諦めず、お笑いタレントに転向した事で上昇気流に乗れたのでしょうね。
『ヤングおー!おー!』で人気を不動のものに
明石家さんまさんは1976年1月、大阪の読売テレビが制作担当をしていた『11PM』で、テレビデビューは全国ネットでした。“落語家の成人式”という企画で、着物ではなく、赤いブレザーを着て出演。良くも悪くも印象を残し、番組に出演していた横山やすしさんに、気に入られています。
その後、大阪・毎日放送の大人気番組『ヤングおー!おー!』に出演し、司会の桂三枝さん(六代 桂文枝さん)の目に留まり、1978年頃からレギュラー出演。関西での人気を不動のものにしていきます。そして、満を持して1981年に始まった『オレたちひょうきん族』に出演。全国規模の人気者になり、お笑いブームを牽引していきます。
(出典:https://mt-j.info/)
若い頃のさんまさんは、東の郷ひろみ、西の明石家さんま、と言われるほど女性に人気でした。どこへ行ってもキャーキャーと黄色い歓声が上がり出待ちも当然、多くの女性に囲まれていました。
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桂文枝と紫艷の画像がヤバい!フライデー第3弾ラインに嫁激怒?
ビートたけしさん、タモリさんと共に、お笑い界のBIG3と呼ばれるまでになりました。また、1980年に堺正章さんが主演で放送された『天皇の料理番』や、最高視聴率55.3%を記録した、沢口靖子さん主演で大ヒットした1985年放送のNHK朝の連続テレビ小説『澪つくし』にも出演し、役者としても認知されることとなりました。
こうして振り返ると、ひとつひとつの出来事が、全てブレイクのきっかけと言っても、過言ではないかもしれません。数少ないチャンスをしっかりと自分の物にし、ステップアップしているように思えますね。
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明石家さんまと日航機墜落事故の関係とは?
明石家さんまさんは1979年から、関西の老舗ラジオ番組『MBSヤングタウン』でメインパーソナリティを務めています。そのため、いつもは羽田空港から大阪へは日本航空を利用していました。
1985年8月12日。
さんまさんはこの日、『オレたちひょうきん族』の収録がなぜか早く終わり、この日に限って、なぜか1便早い全日空で大阪に移動しました。そして、いつも利用していた日本航空123便は、乗員乗員520名が死亡する墜落事故を起こしました。本当なら乗っていたはずの飛行機の墜落事故です。
さんまさんがキャンセルしたことで、乗ることができた人もいたはずです。まだ弟さんを亡くし2年のさんまさんのショックは大きく、明るく元気で笑いの絶えない『MBSヤングタウン』が、
「今日はアホなこと言う気にならん」
と、各コーナーを休止。内容のほとんどを、日航機墜落の関連ニュースに変更しました。この墜落事故から、さんまさんは東京-大阪の移動は、飛行機から新幹線に変更しました。さんまさんの現在の座右の銘「生きてるだけで丸儲け」は、この経験から生まれたそうです。
さんまさんの愛娘のタレントIMALUさん。「生きてるだけで丸儲け」という座右の銘も、こうした過去の経験などに由来し、愛娘のタレントIMALUさんの本名“いまる”の、名前の由来になっています。
明石家さんまの娘IMALUへの想いは?
明石家さんまの娘IMALUへの想いは?
(出典:https://thetv.jp)
明石家さんまさんは、IMALUさんが幼い頃に大竹しのぶさんと離婚しています。IMALUさんが芸能界デビューすることは、大竹しのぶさんからさんまさんに知らされました。だからといって、疎遠なわけではないんですよね。IMALUさんの運動会に参加したり、家族揃って東京ディズニーランドに行ったりと、和気あいあいとしたエピソードもあります。
大竹しのぶさんのお母さんが亡くなられた時には、一番に駆けつけたさんまさんが、大竹しのぶさんに寄り添っていたそうです。IMALUさんには、お父さんの違う4歳上の兄・二千翔(にちか)さんがいます。「実の父親ではないので、“お父さん”とは呼びにくいだろう」と思ったさんまさんは、自分のことを「ボス」と呼ばせていました。
自分の子供の頃の生い立ちから、そんな配慮をしたのかもしれませんね。ですからIMALUさんも、さんまさんのことを「ボス」と呼んでいるのだとか。さんまさんは区別することなく、2人をかわいがったんですね。当時さんまさんと共演していた大桃美代子さんが、どのくらいかわいがっていたかというエピソードを語っています。
さんまさんは超売れっ子だったのに、結婚後は仕事を少し控えたんだそうです。結婚すると、奥さんが控えるケースはよく聞きますが、旦那さんが控えるのは芸能界でも珍しいかもしれません。それにも、ちゃんと意味があります。さんまさんは“運命論者”で、バランスをすごく気にしていたそうです。
明石家さんまは“運命論者”?
これだけ聞いても、ピンとこないですね。「まだ子供が小さいから、自分が輝くと、影が子供に出る」と考えておられたそうです。「仕事で名声を得るより、子供への影響を和らげるため、仕事のペースを落とすようにしておられました」そう聞くと、なるほどですね。
さんまさんからIMALUさんの話題を言うことはあっても、周りから言われると「テンションがお父さんになるからやめて」と苦笑いを浮かべる一面も。そんなさんまさんだから、共演も嫌なんだそうです。それどころか、IMALUさんが出ている番組もみないんだとか。
見るとダメ出ししてしまうからだとか。芸人さんから飲み会に誘ってもらえないと言っていたIMALUさんですが、こんなにさんまさんが大切にしている愛娘だから、芸人さんには引退するくらいの覚悟が必要なのかもしれないですね。
明石家さんまの現在の活躍も凄い!年収は?
明石家さんまさんは、60歳の還暦を迎えたら、テレビから引退すると話していました。もう4年ほど過ぎていますが、笑いの勢いは衰えを知りません。後輩芸人から「いつ辞めるんだ」と、ツッコミを入れられるくらいです。後輩から働きすぎと、文句を言われているさんまさんの年収は、およそ5億円と言われています。
ジャンボ宝くじに当選したような金額ですね。さんまさんは1999年に、日本で最も露出の多いテレビスターとして、『ギネス・ワールド・レコーズ』の表彰をされた経験もあります。そのため、現在のテレビレギュラー番組は、『痛快!明石家電視台』、『踊る!さんま御殿!!』、『ホンマでっか!?TV』、『さんまのお笑い向上委員会』の4本。
ギャラは1本300万円と言われています。単純計算で、1週間で1200万円になりますね。1985年から30年続いた『さんまのまんま』のレギュラー放送が終わったのは、制作費が減りさんまさんのギャラが払えなくなったからと言われています。後継番組『おかべろ』に、岡村隆史(ナインティナイン)・田村亮(ロンドンブーツ1号2号)の2人の司会でスタートしたことを考えると、さんまさんのギャラは破格なんですね。
レギュラー番組以外にも、特番やCMがあります。1979年から出演しているラジオ『MBSヤングタウン』は特別です。さんまさんは19歳の頃に起こした駆け落ち騒動で、番組をすっぽかしたこともありました。それでも帰ってきたさんまさんを、ずっと使い続けてくれている恩から、現在も番組出演料は5万円で出続けているそうですよ。
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明石家さんまの事務所は吉本じゃない?所属タレントを調べてみた!
明石家さんまプロフィール
(出典:https://mantan-web.jp)
最後に、明石家さんまさんのプロフィールを見ておきましょう。
明石家さんま
本名:杉本 高文(すぎもと たかふみ)
旧名:笑福亭さんま
1955年7月1日生
出生地:和歌山県東牟婁郡古座町
出身地:奈良県奈良市
血液型:B型
身長:172 cm
最終学歴:奈良県立奈良商業高等学校
(現・奈良県立奈良朱雀高等学校)
師匠:二代目笑福亭松之助
所属事務所:吉本興業(マネジメント)
個人事務所:オフィス事務所
活動時期:1974年-
同期:島田紳助、オール阪神・巨人、関根勤、桂小枝
兄:杉本 正樹
元妻:大竹しのぶ(1988年-1992年)
娘:IMALU
代表番組
『痛快!明石家電視台』
『踊る!さんま御殿!!』
『ホンマでっか!?TV』
『さんまのお笑い向上委員会』
『さんまのまんま』
『オレたちひょうきん族』
『笑っていいとも!』
『あっぱれさんま大先生』
『恋のから騒ぎ』
『さんまのSUPERからくりTV』
代表作
『天皇の料理番』(1980年)
『心はロンリー気持ちは「…」』シリーズ(1984年-2003年)
『澪つくし』(1985年)
『男女7人夏物語』(1986年)
『男女7人秋物語』(1987年)
『アナウンサーぷっつん物語』(1987年)
『恋も2度目なら』(1995年)
『古畑任三郎』シリーズ(1996年)
『世界で一番パパが好き』(1998年)
映画『いこかもどろか』(1988年)
映画『みんなのいえ』(2001年)
『マスカレード・ホテル』(2019年)
受賞歴
1982年 花王名人大賞 新人賞
1982年 日本放送演芸大賞 ホープ賞
1983年 日本放送演芸大賞 奨励賞
1985年 日本放送演芸大賞 優秀賞
1985年 花王名人大賞 大衆賞
1986年 ゴールデン・アロー賞 芸能賞
1986年 日本放送演芸大賞 特別賞
1987年 日本放送演芸大賞 大賞
1999年 ギネス・ワールド・レコーズ(日本で最も露出の多いテレビスター)
明石家さんまさんの芸名については、実家が水産加工業を営んでいたので、魚に関する芸名を取り入れました。そして師匠の笑福亭松之助さんの助言により亭号を改めて「明石家さんま」と名乗ったと言われています。そんなさんまさんは親しい人から、“話を盛る”“話していることの九割は嘘”と言われますが、今ではそれもネタになっています。
不眠症で睡眠導入剤を服用しているそうです。個人事務所に、村上ショージさんや間寛平さんが所属していると一部報道があり、さんまさんが否定しました。趣味も多彩なさんまさんはテニスやサッカー、ゴルフなど色んなスポーツができるのも凄いです。とりわけサッカーは、よくクラブワールドカップなどでゲスト出演するくらい詳しいとの事。
ちなみに好きなサッカー選手は、バルセロナの至宝リオネル・メッシ選手だそう。
明石家さんまの生い立ちに絶句!兄と継母の現在についてまとめ
あまりにも多くのエピソードがある“お笑いモンスター”のさんまさんにも、笑えない過去や生い立ちがあったんですね。さんまさんを見る目が変わりました。でもそれが嫌で、さんまさんは家族の話をしないのかもしれません。いっぱい泣いてツラい思いもしてきた、他人の痛みがわかる人の笑いは、心に届くのでしょうね。
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